Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

感想文と論文

 レポートの書き方に関して、「感想文と論文とはどう違うんですか?」と聞かれることがあります。確かに、明確な境界線があるわけではありませんが、両者は歴然と違います。

 1)「感想文は対象を大まかにしか分析しないが、論文は詳しく分析する」

 「分析する」ということは、対象を、ある方法論に即して、共通理解可能な一定の形式に言い換えることです。対象の客観化とも言えます。感想文も、自分の感想を述べる範囲で対象を分析しますが、その分析は主観的なことが多く、他の主観が見れば、まったく別の結果が出てしまう、ということがほとんどです。また、感想文は、それでいいのです。

 もちろん、論文も絶対的に客観的ということはありえませんが、ある程度の客観性を確保しないことには、論文として扱われません。この分析の手法が、方法論とか理論と呼ばれるものです。論文を書く場合には、どんなに素朴なものでも、何らかの方法論の枠組をもって対処しなければなりません。何も○○学、○○主義でなくても、自分自身で確立した尺度であって構いません。けれども、そのためには一定の論ずる経験が必要になります。

 2)「感想文は感想を述べるだけでよいが、論文は自説を他の説との対決において主張する」

 論文が評価されるのは、新たな発見や解釈がある場合ですが、それは研究史や他の学説において位置づけることでしか認定できません。無我夢中で書いていたら、結果的にすごいのができた、ということも絶対にないとは言えません。でも、研究は発展し続けているので、そんなまぐれ当たりはまずありません。そして、その場合でも、それを正しく評価するのは、研究史を理解している者だけです。

 初学者が研究史・学説史を十分に把握するのは容易ではありません。しかし、単なる感想文ではなく論文の域に高めようと思うならば、その対象に関する重要な先行論文や学説を調べ、それとの関係(批判・対比・展開など)において自説を主張することです。座標軸の一切ない空間では、位置を決めることはできません。また、「重要な先行学説」であることが肝心で、有力でない論を徹底的に叩いたって何にもならないのです。

 フレームを学び、フレームをこわすこと。これです。