Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

発話と主体

 言葉を発する主体と、その言葉との間の関係は、日常的には自明のように思われますが、実際には単純ではありません。単純でない場合がある、のではなく、どんな場合にも単純ではないのです。

 「私はあなたが好きです」と好きでもない人に言う場合、一般には嘘をついていると言えます。同じことを、芝居の舞台の上で言う際には、演技をしているのであり、架空の物語の中で書くときには、虚構である、と言われます。嘘・演技・虚構などの場合から分かるように、発話された言葉の主体(主語=この場合は「私」)と、それを実際に発話している主体(この文を発した人間)とは、区別されなければなりません。前者を発話の主体、後者を発話行為の主体と呼びます。

 語り論では、語り手と作者とは別ものである、と見なします。語り手は、会話文の主語となる作中人物と同じく、発話の主体であるのに対して、作者は発話行為の主体であるからです。作者が心にもないことを語り手に語らせることは、架空の意思を人物に言わせることと同じように可能です。作者なるものを探すとすれば、語り手や人物や物語や文体など、あらゆる言語的要素を総合して、それらを発したと想定されるところに見出される、ある人格なのだ、と言うほかにありません。

 しかし、そのように想定された発話行為の主体が、作者その人の人格と必ずしも一致するとは言えません。語り手や人物や物語や文体などは、すべて読者の読解行為によって構成された対象です。読者によって、そのイメージは全く異なってきます。すなわち、発話行為の主体も、作者とはまた別ものなのです! 一般にそれを作者と呼び習わしているのは、慣習(読むフレーム)によるものです。それは、受容者が作者を求めるからこそ召喚される、ある幻想に過ぎません。

 ところで、これは嘘・演技・虚構の場合だけなのでしょうか? いいえ。日常的に、私たちは発話主体、発話行為の主体、そして発話した人(の心理、真意、真情……)を一致するものと見なしていますが、それは強固な慣習(マナー=言動の誠実さへの要求)によるものです。私たちの言葉は常にメディアであり、メディアは媒介するのであって、決して本体を転写しません。このように、虚構的な発話は、決して言語一般からの逸脱ではなく、むしろそのメカニズムの根元に発しているのです。