Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

ドキュメント形式2

 文芸テクストに現実の文書の体裁が用いられるドキュメント形式が、実際のドキュメントと異なる要素は、虚構と非虚構との差異と重なる、と前に書きました。これをもう少し敷衍すると、次のようになります。

1)情報の実在性
 ドキュメントは、執筆や、発信・受信に関する主体や時間・場所についての情報を、実在として想定することができます。どんな文書も、誰かが、いつかどこかで書き、そして何らかの方法で発信しない限り、実在のものとなりません。それが不明である場合でも、存在しない、ということはありえません。

 ドキュメント形式の場合は、必ずしもそうではありません。『人間失格』の大庭葉蔵の手記を、いつどこで書いたのか、なぜそれが船橋のマダムの手に渡ったのか、テクストに書かれていないことは、単に不明であるだけでなく、存在せず(推測する解釈は常にありえます)、そうであっても一向に構わないのです。

2)執筆者/発話行為主体/発話主体
 ドキュメントの執筆者は、そのテクストを発する主体となることができ、また、そのテクストの主語となりえます。当然のようですが、他人の手紙を代筆したり、三人称で日記を書いたり、休学届を捏造する場合などには、必ずしもそうはなりません。

 ドキュメント形式の場合、発話主体は、決して発話行為の主体ではありえません。『こゝろ』の遺書の発話主体は作中の先生ですが、その遺書をテクスト中に配置し、発話を行った主体の意思は別に想定できます。大庭は手記の発話主体ですが、この手記の発話行為は、「はしがき」「あとがき」の発話行為と同水準にある、テクスト的な起源として考えなければなりません。

3)物語への寄与
 ドキュメントは、たとえ未完であっても、常に独立した物語です。三日坊主の日記、書きかけの手紙は、それじたいとして完結しています。

 ドキュメント形式は、たとえ完結していても、それが属する上位の物語に寄与する物語を提供するだけです。先生の遺書は、『こゝろ』というテクストに、大庭の手記は、『人間失格』全体に、各々寄与する要素に過ぎません。「石にひしがれた雑草」のような一通の訣別状であっても、主人公の語りは、テクストという上位構造において相対化されざるをえないのです。

 これらの原則は、ドキュメント形式の種類にかかわらず、これを読解する際に、常に重要となります。