Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

夢は その先へは もう

 暑い夏の日でした。本郷の通りを探し歩いて、その小さな記念館に入ったときには、汗がすーっと引いていきました。その時期には、建築家でもあった詩人が設計した家屋の模型や設計図などが、集中的に展示されていました。すれ違うのもやっとの狭い通路。でもその小ささは、立原道造の空間のあり方に通じるようにも思われました。私は、まるで、幼い日に遊んだ草原に戻ったかのように、懐かしい思いで一杯になり、外の世界で起こっているすべてのことを忘れました。

 詩が好きだった私は、中学の頃から、ベージュの表紙に綴じられたノートに、好きな詩人の作品を抜き書きしていました。最初は、犀星・光太郎、それから中也や立原の作品で、ノートは徐々に埋まっていきました。高校時代は、ずっと中也でした。布製の肩掛け鞄に新潮文庫を入れて、学校へ行っていました。大学にあがると、なぜか中也よりも立原が好きになり、ほとんど暗唱するまでに、やはり新潮文庫をすり減らして読んでいました。

 盛岡は晩年の立原が旅で滞在した街で、そのもようは「盛岡ノート」に記されています。彼が愛したという三つの川の合流地点・杉土手、「光あれとねがふとき」の詩碑が立つ桜山をはじめ、この街を啄木や賢治の街ではなく、むしろ立原の街として体験するように、帰省した私と友は、連れだって歩き回りました。不思議なことではないのかも知れませんが、学生時代、私と友は、それまで住み慣れた街を再発見していたのです。

 大学では、院生と学生だけで行われる研究会がありました。大学院生のころ、ここで発表した内容のうち、『或る女』や、原民喜、そして立原については、後に研究者になってから、そのときの着想を核にして学会発表をし、論文を書きました。それらは、私の著書の中でも重要な部分になっています。真に書きたいこと、究めたいテーマというのは、そう無数にあるものではないと思います。若いころ、そういうテーマにいくつかめぐり会えたことは、私にとってまことに幸運なことでした。

 すなわち、物心ついて以来、私はずっと、立原のテクストと一緒だったということになります。それほどまでに親炙したのです。私の中で、「完璧な作品」「空気のような存在」と言えるテクスト群は、数えるほどしかありません。立原はその一人です。それに触れるとき、他のどんな感情をおいても、「懐かしさ」を感じるのは、そのためです。