Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

断章集積形式(フラグメント形式)

 坪内逍遙の『小説神髄』は、社会進化論をベースとした小説論で、いわば小説進化論を説いた理論書ですが、小説の内容として、因果関係で結ばれた緊密で一貫した物語を求めています。これは、いわば西洋文学の金科玉条であり、古くはアリストテレスの『詩学』から、新しくはロラン・バルトの「物語の構造分析」や『S/Z』に至るまで、連続体としての物語を求めたり、それを理論化したりする思想は連綿と続いています。

 そこで、よく言われるのが、日本の古典文学の不定形的な側面です。物語においてすら、短い章段や断章の繋がりが主となり、前後の脈絡や一貫性は、読解の技術との相関者としてのみ現れることがあります。(例外はたくさんあります。)いわんや、随筆、そして歌集と、伝統的なジャンルにおいては、その傾向はいっそう顕著です。もちろん、だからこそ逍遙が物語の一貫性を求めたことが意義をもちえたわけです。

 断章集積形式は、以前に述べたモンタージュと深い関連性をもっています。まず、モンタージュやフラグメントは、単純に持続する実体としての物語という観念を打ち砕きます。次に、可能であれば、それは受容者の側の、より積極的な参与によって、今までにない新たな次元の物語を発生せしめます。しかし、それは可能であれば、に過ぎません。一般にモンタージュは、素材とは異なる高次の意味の発生を伴いますが、そうならない場合もありうるのです。

 フラグメントが、いつまでもフラグメントであること。そのような局面に立ち会う時、私たちは常に戸惑います。私たちは、近代合理主義のパラダイムの中で、因果性や一貫性、連続・持続、そして意味という病に取り憑かれており、それを否定するフラグメントの羅列には、容易に対処することができないのです。その結果、意味のないものに、無理やり意味を見出そうとすることがあります。そしてそれこそが、理解の方法の一つであることにも間違いはないのです。

 ロラン・バルトは、記事をABC順の辞書形式に配列した著書を幾つか残しましたが、太宰治もまた、「懶惰の歌留多」というカルタ形式のフラグメンタル・テクストを作り、「HUMAN LOST」という日記のフラグメント集を書きました。いずれも、物語の強大な統合力に対する挑戦や牽制であると考えられます。それらのようなテクストを、単純に意味の世界に回収してよいものでしょうか?