テクスト分析(物語4)
世界にはたくさんの物語があります。小説、神話、絵本、映画、ゲーム……。それらの多様性を、いわば「物語の文法」「物語の辞書」を作ることによって、統一的に把握することはできないでしょうか。このように考えて、記号学の方法を動員し、物語の一般法則を追究しようとしたのが、ロラン・バルトの「物語の構造分析序説」です。現代の物語論は、ここから始まったのです。
バルトの構造分析の方法は単純で、「分布」、つまり言葉の線状性(初め-中-終わりの順序で継起すること)の方向に従う、文の配列と、「組み込み」、つまり言葉の意味の多層性(言葉の関連や多義性によって深い意味を実現すること)の方向に従う、文の機能とに分析し、それらを総合して物語の全体像を理解しようとするものです。ソシュールの記号学が基礎になっています。
まるでxyの座標軸上に物語を展開するかのようなこの方法は、まさにその単純さが魅力でもありまた難点でもありました。対象を構造という実体と見なす、いわば静態的分析手法は、いくら何でも物語の多様性を捨象し過ぎていて、無理がありました。バルトの理論はこの後、『S/Z』で述べられたテクスト分析の手法へと発展します。
そこで力点は、読むこととは、読者がテクストをもう一度書くことである、とする、受容の局面へと大きく移動します。実体としての対象ではなく、テクストと読者との関係へと、分析の中心が置き換わったのです。バルザック『サラジーヌ』は、「レクシ」と呼ばれる断片へと切り分けられ、それぞれのレクシについて、2つならぬ5つのコードが適用され、いっそう複雑な表意作用が取り出されます。
物語の多義性は、「立体画的複数性」とか「交響曲」の比喩で語られ、問題はもはや構造を明らかにすることではなく、「構造化作用」を解き放つことである、とされます。この後、バルトはさらに、構造以前の記号の様態を「第三の意味」という概念で表現することになります。1960年代後半から70年代にかけてです。
物語の多義性を注視し、そこから何とか表意作用のメカニズムを規定しようとするバルトの挑戦の意義は、今なお、まったく色あせてはいません。ただし、物語は、そこから必ず意味を理解できるようなものでしょうか。現在の目から見ると、バルトのテクスト分析は、テクストによるコミュニケーションに関して、やや楽天的に過ぎるようにも感じられます。
バルトの構造分析の方法は単純で、「分布」、つまり言葉の線状性(初め-中-終わりの順序で継起すること)の方向に従う、文の配列と、「組み込み」、つまり言葉の意味の多層性(言葉の関連や多義性によって深い意味を実現すること)の方向に従う、文の機能とに分析し、それらを総合して物語の全体像を理解しようとするものです。ソシュールの記号学が基礎になっています。
まるでxyの座標軸上に物語を展開するかのようなこの方法は、まさにその単純さが魅力でもありまた難点でもありました。対象を構造という実体と見なす、いわば静態的分析手法は、いくら何でも物語の多様性を捨象し過ぎていて、無理がありました。バルトの理論はこの後、『S/Z』で述べられたテクスト分析の手法へと発展します。
そこで力点は、読むこととは、読者がテクストをもう一度書くことである、とする、受容の局面へと大きく移動します。実体としての対象ではなく、テクストと読者との関係へと、分析の中心が置き換わったのです。バルザック『サラジーヌ』は、「レクシ」と呼ばれる断片へと切り分けられ、それぞれのレクシについて、2つならぬ5つのコードが適用され、いっそう複雑な表意作用が取り出されます。
物語の多義性は、「立体画的複数性」とか「交響曲」の比喩で語られ、問題はもはや構造を明らかにすることではなく、「構造化作用」を解き放つことである、とされます。この後、バルトはさらに、構造以前の記号の様態を「第三の意味」という概念で表現することになります。1960年代後半から70年代にかけてです。
物語の多義性を注視し、そこから何とか表意作用のメカニズムを規定しようとするバルトの挑戦の意義は、今なお、まったく色あせてはいません。ただし、物語は、そこから必ず意味を理解できるようなものでしょうか。現在の目から見ると、バルトのテクスト分析は、テクストによるコミュニケーションに関して、やや楽天的に過ぎるようにも感じられます。