Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

コミュニケーション

 通常、コミュニケーションする、と言えば、情報を伝達するという意味にとらえられると思いますが、伝達された情報の共有を検証しようと思えば、その検証の結果もまた別の情報として、再び検証されなければなりません。ある人の持っている情報と、他の人の情報とが厳密に一致しているか否かは、そう簡単に分かるものではありません。小説や映画の解釈が人によって大きく異なることからも、情報の厳密な共有はむしろ、まれなことのようにも思われます。

 コミュニケーションは、それによって引き起こされる結果、たとえば行為・表情・状態などが、概ね期待されたものとなる時に、成功したと言われます。多くの場合、複数の人の間の情報の照合によってではなく、もたらされた帰結こそが、コミュニケーションを成立させているのです。それは、伝達ではなく方向づけであり、極端な場合には、失敗したコミュニケーションや、コミュニケーションの否定、たとえば対立・逆説・戦争なども、むしろ典型的なコミュニケーションとなりえます。

 伝達という意味でのコミュニケーションは、原理的に不可能性を帯びていると考えられます。どのような情報でも、厳密に共有することは困難です。ましてや、感情・思考・表象などの複雑な情報の場合、元の情報そのものが何であるのかさえ、明確に表現することはできません。方向づけとしてとらえる場合も似たようなもので、同じ方向性を誰とでも共有できるわけはありません。

 ただし、コミュニケーションはコミュニケーションの不可能性と同形のものとして現れるという事態は、文芸・芸術・表象などにおいて、常に本質的な役割を果たします。それらはどれも、コミュニケーションの、ではなく、コミュニケーション不可能性のヴァリエーションであると言えます。そのようなパラドックスは、特に現代の表象テクストにおいては重要な位置を占めています。