Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

シネクドキー(提喩)

 「寒いと思ったら白いものが降ってきた」で、「白いもの」=雪を、「今、必要なのは大砲よりバターだ」で、「大砲」=軍事力、「バター」=民生を指示するのが、シネクドキー(提喩)です。前者は、「白いもの」というクラスでそのメンバー(雪)を、後者は、「大砲」や「バター」というメンバーでそのクラスを指し示しています。シネクドキーは、クラス(集合)とメンバー(要素)との間のカテゴリー変換を本質とする比喩と言えます。

 シネクドキーに一躍、脚光を浴びせたのが、グループμの『一般修辞学』です。彼らによれば、メタファー(隠喩)は、二重の提喩だ、というのです。「男は狼なのよ」の場合、まずメンバー「男」が属するクラス(本能的・野蛮・獰猛・貪欲なもの……(^^;))が参照され、次にそのクラスに属する他のメンバー「狼」が選ばれて、隠喩を構成するという説明です。これも佐藤信夫『レトリック感覚』に明快な解説があります。

 この説では、隠喩と提喩とは、カテゴリー変換を伴う点において近縁の比喩とされます。他方、メトニミー(換喩)は、世界における物理的対象間の隣接性が関与的となります。赤い頭巾そのものと、女の子とは、どこも類似していませんが、ただ、両者は、物理的事態としてくっついているのです。

 ただし、メトニミーとシネクドキーは、境界領域においては混同されます。それは理由のないことではありません。「港を白い帆が出て行った」の場合、「帆」は船の物理的な一部分を成しますから、「青ひげ」型のメトニミーですが、また、「帆」は「船体を構成するもの」というクラスに属するメンバーとも言え、その場合はシネクドキーとも見られます。

 ある対象は、空間的には他の対象と隣接関係にあると同時に、意味論的には必ず何らかのカテゴリーに属します。頭巾と人物の場合とは異なり、船と帆のように、空間的にも意味論的にも近接の位置にある対象間には、メトニミー的とシネクドキー的の両方の性質を措定することができるわけです。

 そして、「……もの」という提喩は、無限の可能性を帯びています。すべてはものである、と言えば、どんな対象もこのカテゴリーに含めてしまうことができます。私は宮澤賢治の詩の表現において、この「もの」の提喩が特徴的であるととらえ、そこに、世界環境における万物の連鎖と、その限界の感覚を読み取ってみました。