Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

言葉のあて先(レポートの書き方3)

 論文を誰に向けて書きますか?

 一番単純な答は、「先生に向けて」でしょう。そのレポートを読んで評価する人を念頭に置いて書くのは、基本です。が、それが教員への迎合や阿(おもね)りになるとすれば、それは書く側以上に、教員が良くないのです。自分の学説と違う論文でも、それじたいの完成度や達成度において評価するのでなければ、論文指導など、所詮、できるものではありません。そうやって書かせた論文は、教員の自己満足に過ぎません。

 複数の指導教員がいて、学問上あるいは個人的に仲が悪かったりすると、さらに悲惨です。論文内容が分裂します。大学院生でさえ、教員に教わるのではなく、自分自身で勉強できなければならない、というのは、現状では限られた学生にしかあてはまりません。大学院生こそ、指導教員の縄張りと見なされることも多いようです。さらに上級の大学院を目指したり、研究者を志す院生の場合、先生に認められなければ、まったく覚束ないことになるわけです。

 いや、自分は不合格とされてもよい、書きたいことを書くだけだ、という人もいるでしょう。それはけっこうなことです。しかしその場合、ごく限られた交友範囲の内側でだけ通用するような書き方も出て来ます。だからこそ、論文を教員や、自分とは考え方の違う人に批評してもらうのは大事なことです。内輪だけでは通用しない、様々な概念の枠組と出会うことができます。ブログでも論文でも同じです。お仲間にあてた受け狙いの文章は、ほとんどの場合、他人にとって無意味などころか、甚だ不愉快なものでしかありません。

 私のかりそめの答はこうです。私の言葉を認めない人、私の理論や解釈に反対の人、私のことが嫌いな人、そういう人を想定して、その人に向けて書くこと、これです。もちろん、そういう人は、私の主張を分かってくれないでしょう。私はそういう人にも理解できるように書ける、などと楽天的なことは信じていません。またそれは、分かりやすく書く、ということとも違います。

 そうではなく、敵があると、言葉の強度は増すということなのです。そのような強度を帯びることによって、論文は、迎合や内輪受けとは異なった価値を身につけることができます。例えば先行研究と対決したり、他人に読んでもらうのが、その方法です。言い換えれば、言葉の差し向け方においても、ある種の係争=パラドックスをはらむことです。