Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

メロドラマ

 陳腐・通俗・下級の代名詞のように用いられていたメロドラマという言葉に、ジャンルとして初めて明確な位置づけを与えたのは、加藤幹郎の重要な業績です。『映画のメロドラマ的想像力』には、メロドラマは「過剰なる感情のための過剰なる形式」であり、観客とヒロインとの間だけの、この感情の交流によって、過剰ゆえの涙を流すことが、映画メロドラマの基本であると述べられます。また『愛と偶然の修辞学』は、ヒッチコック村上春樹、『めぞん一刻』などの映画・小説・マンガなどを横断的に論じて、メロドラマの現代的様態を鮮明にしています。

 メロドラマについて考えることは、また物語一般について考えることでもあります。メロドラマの構造は、原理的に反復であり、かつて見た物語をもう一度見る(読む)ことが快楽の源なのです。ということは、まず第一には、そもそも物語を見る(読む)ことは快楽なのであり、第二には、物語は何ら新しいものである必要はなく、既成・既知の物語であっても、享受の快楽をもたらす、ということになります。これらのポイントから、現代、行われている物語の機能を見直すことができそうです。

 つまりメロドラマにあっては、新奇な筋立てが度を超すと、観客がヒロインと交感することができなくなり、「涙を流す」こともできなくなるので、むしろ陳腐な方がよいわけです。最近の昼メロのように、斬新なシーンが頻出するテクストは、むしろメロドラマからは逸脱しつつあるようです。また、メロドラマに限らず、リメイク、リバイバルの流行は、物語にあっては、それほど危惧すべき事態ではないのかも知れません。たかだか、100年や200年程度の現代という時代において、それを反復と言っても持続と言っても大差ないとも言えます。

 しかし、ある人の言う「90年を境に、文化には新しいものは何一つ生まれなくなった」という考察には、一片の真理も含まれていそうです。これほどのリメイクの横行が、想像力の脆弱化と、受容者層の健忘症の帰結ではないと、断言できるほどの根拠を私はまだ見出していません。そのような意味でも、現代のメロドラマの動向を注視することができます。メロドラマは、ジャンルの中のジャンルであり、文化の強度を測る定点観測地点であるとも言えそうな気がします。