Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

境界

 文化テクストの様式を空間性の観点からとらえたのが、ユーリー・ロトマンの文化記号学です。文化テクストは、内/外、下/上、我々/彼らといった空間的対立構造を骨格とするような、空間的配置をとるということです。文化テクストとは、その文化に属するあらゆるテクストを包括するようなインヴァリアント(不変異体)なので、一種の世界モデルのようなものになります。そのようなごたいそうなものでなくとも、テクストを、境界によって区切られた文化的空間として見る観点は、物語や人物の表面だけを見る見方を揺り動かしてくれることがあります。

 ロトマンが、物語とは境界の越境であり、そのような越境が重要なので、必ずしも人物は物語に不可欠ではない、と説いていることは前に触れました。小説などの物語だけでなく、空間を可視化するジャンルである映画映像においても、境界の発見は解釈のための有効な契機となりえます。『ミツバチのささやき』のアナが男を介抱するのは「村はずれの廃屋」でした。アナは線路を越えてそこへ行くのであり、また鉄道が街(都会)へ通じているとする感覚もあります。また、アナは森を抜けていこうとして、こころの向こう側にまで行ってしまったのです。

 川、橋、道、壁、家、体、その他、どんなものでも境界のラインとなりえます。動く映像が、その「動く」ことを本質とするとすれば、「動く」とは境界線を越えることにほかならないのですから、映画映像の本質が境界にあると言っても過言ではないのです。極言すれば、映像を論じる語彙は、すべて何らかの意味で境界の諸変形にほかなりません。さらに、映像はかならずや、フレーム(この場合は画面の外周の限界のことです)によって枠取られていて、フレームは映像が生得的に内蔵している境界であるわけです。ジル・ドゥルーズの『シネマ1 動くイメージ』は、フレームへの注視から始められます。境界は、意味の始まりです。