物語(疑問―回答)
物語を読むことはどのような行為なのでしょうか。それを現象的な局面からとらえてユニークなのは、ジェラルド・プリンスの語り論です。プリンスの語り論は、読むことのファクターを大きく導入した点が特記されます。すなわち、物語を読むことは、読者が、テクストに対処して、まず〈疑問〉を取り出し、次いでその〈疑問〉に対する〈回答〉を得ることの繰り返しである、というのです。
この行為の成否は、読者の〈読解能力度〉と、テクストの〈読解難易度〉によって左右されることになります。プリンスはこの2つの読解可能性を区別していて、読者の読解能力が同じであるとするなら、難しいテクストとは、〈疑問〉や〈回答〉を発生させることが難しいテクストなのだと規定します。プリンスは追ってこの構造の種々相を分析的に分類していますが、それはやや煩雑な感があります。
最も典型的な場合は、たとえば探偵小説の類でしょう。〈疑問〉は、犯罪にまつわる謎、すなわち犯人やトリックの真相であり、〈回答〉は、言うまでもなくその解明です。謎が解明されることを読者は期待して読むのであり、万一、迷宮入りの犯罪であったとしても、それは変わりません。そして、探偵小説でなくとも、物語を読む行為は、多かれ少なかれ、このような〈疑問-回答〉構造を、テクストの細部また全体に対して認知する連続であると言えます。
この見方と結果的に近いのが、ウンベルト・エーコの物語読者論です。エーコによれば、物語は、「この先どうなるのか」という読者の期待を満足させるような、複数の可能世界の連続です。可能世界、すなわち、ありえたかも知れない世界は、物語の展開上、無数に想定されます。読者は、その想定を基盤としつつ、テクストに設定された特定の可能世界をたどりながら、全体としても、物語をある種の可能世界として構成していくわけです。
虚構世界が可能世界と同一であるか否かは意見の分かれるところであり、前者は確かに可能世界を含むが、むしろ「ありえない世界」をも大量に含んでいるようです。けれども、これらの説は共通に、物語を読む行為が、どのように特異な情報行動なのかを考える契機を与えてくれます。語り論は終わった、とする雰囲気が濃厚な昨今ですが、私は全然そうは思っていません。せっかく貯めた財産を次々とドブに捨てていくなんて、愚かなことです。
この行為の成否は、読者の〈読解能力度〉と、テクストの〈読解難易度〉によって左右されることになります。プリンスはこの2つの読解可能性を区別していて、読者の読解能力が同じであるとするなら、難しいテクストとは、〈疑問〉や〈回答〉を発生させることが難しいテクストなのだと規定します。プリンスは追ってこの構造の種々相を分析的に分類していますが、それはやや煩雑な感があります。
最も典型的な場合は、たとえば探偵小説の類でしょう。〈疑問〉は、犯罪にまつわる謎、すなわち犯人やトリックの真相であり、〈回答〉は、言うまでもなくその解明です。謎が解明されることを読者は期待して読むのであり、万一、迷宮入りの犯罪であったとしても、それは変わりません。そして、探偵小説でなくとも、物語を読む行為は、多かれ少なかれ、このような〈疑問-回答〉構造を、テクストの細部また全体に対して認知する連続であると言えます。
この見方と結果的に近いのが、ウンベルト・エーコの物語読者論です。エーコによれば、物語は、「この先どうなるのか」という読者の期待を満足させるような、複数の可能世界の連続です。可能世界、すなわち、ありえたかも知れない世界は、物語の展開上、無数に想定されます。読者は、その想定を基盤としつつ、テクストに設定された特定の可能世界をたどりながら、全体としても、物語をある種の可能世界として構成していくわけです。
虚構世界が可能世界と同一であるか否かは意見の分かれるところであり、前者は確かに可能世界を含むが、むしろ「ありえない世界」をも大量に含んでいるようです。けれども、これらの説は共通に、物語を読む行為が、どのように特異な情報行動なのかを考える契機を与えてくれます。語り論は終わった、とする雰囲気が濃厚な昨今ですが、私は全然そうは思っていません。せっかく貯めた財産を次々とドブに捨てていくなんて、愚かなことです。