Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

世代論

 現代の文芸・文化批評において、世代論は、《似たような表現・発想・思想を共有する人たち》を問題とする、というほどの意味で用いられます。世代に関する語彙は、「70年代」「90年代」などの時代や、「団塊の世代」「全共闘世代」などの歴史的用語となったもの、「共通一次世代」「ウォークマン世代」「オタク世代」などの社会現象や、「オウム世代」「9.11世代」などの事件を冠したものまで様々です。

 世代論がまた、地域色・企業色とも絡むのは、それぞれの時代において、特色ある文化を生んだ、あるいはその象徴とされる地域や企業が交替するからです。そういうわけで、世代論+セゾン系とか渋谷系、新宿系などという下位区分(?)も出てきます。まあこれらがたかだか、偏狭な「東京村」内部のナワバリ争いでしかないのは、いつものことなので大目に見てやることにします。

 さて、誰もが時代の子であることを免れないのは確かです。だから、80年代なら80年代に活躍した人たちが、その時代の刻印を負っていることに間違いはありません。それが、地域の標識とともに語られても、また、そのように語られることを自ら望んだとしても、あながち咎められはしないでしょう。しかし、このような世代論は、どこか、想像力の限界だけを示してはいないでしょうか? 十把一絡、とは、実にうまい言い方です。

 人はある時空間に生きるのであって、どこか超常の場所で活動するわけではないのですから、時代にせよ地域にせよ、必ずや特定のものをにないます。けれども、自分ではいかんともしがたいその宿命だけを前面に押し出す批評は、一種のレイシズム(racism)ではないでしょうか? いずれにせよ、人間の想像力は、出自(race)との葛藤や超脱の運動の中でのみ、その真価を発揮するのであり、単純にそれを再現するのではないはずです。

 「○○世代は××である」。このような発条を欠いた文章に出会ったら、まず、眉に唾をつけてかかるのが、賢明なやり方です。