Project M Annex

日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信します。皆様からの自由な投稿を歓迎いたします。(旧ブログからの移転に伴い、ブログ内へのリンクが無効になっている場合があります。)

人物3(小説・映画)

 小説の人物は人間ではありません。それは、言葉によって作られた虚構の対象です。たとえ現実に実在した人間をモデルにした人物であっても、人物は想像力の所産であり、実在の人間そのものではありません。もちろん、想像力は現実と結ばれている部分もありますから、人物を理解する際に、人間を理解する方法が有効になる部分はあります。しかし、人物論は人間論と同じではありません。人物は、テクスト的な要素であり、テクストによって意味を持ち、テクストに位置づけられるという点において、生身の人間とは大きく異なった対象です。

 従って、小説の分析を行う際に、誰か生身の人間を相手にするのと同じように論じようとすると、何とも変梃な結果を生んでしまいます。けれども意外にも、この変梃な見方は、初学者から「大家」に至るまで、けっこう蔓延しているのが実態です。

 さて、映画の人物も、実は人間ではありません! 小説と同じことが、映画についてもほぼ言えます。映画の人物は、映画というテクストにおけるテクスト的要素であり、テクスト的な意味、テクスト的な位置づけを持ちます。従って、映画の人物論もまた、人間論だけでは不十分であるわけです。『HANA-BI』の西(ビートたけし)は、妻(岸本加世子)を、現実と同じく本気で愛しているわけではありません。それは、『HANA-BI』というテクスト中で、テクスト的に愛しているのです。

(恐らく、演劇でもそうなのでしょう。私は演劇についてはほとんど知らないので保留しますが、必要な変更を施して流用できる場合が多いと推認します。)

 ところが、映画の人物に関しては、それが俳優によって演じられるという一点において、小説との間に差異があります。浅野忠信は、『PiCNiC』においても『ねじ式』においても『ラブ&ポップ』においても浅野忠信です。映画が、必ずや前映画的要素を含むことと、人物が俳優(素人やティパージュの場合でも)であることとは並行します。誰も『モダン・タイムズ』と『独裁者』の浮浪者が全くの別人だとは思いません。むろん全くの同一人物でもないのです。この問題(俳優論)は、映画(たぶん演劇も)というジャンルに通有の一般的な問題であり、どこかできちんと定式化する必要があるように思います。 注)「ティパージュ」は、セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』などで採用された配役登用の理論です。ほとんど素人の一般市民を俳優として用い、俳優のネームヴァリューや演技力に依存する「俳優中心」ではなく、映画のテクストに最もふさわしいキャラクターを重視する「タイプ中心」の発想で、人物を配置する手法のことを言います。